いやまあ区切りよく、規定分量で毎回毎回書き上げているのには、ただひたすら恐れいるしかない。それも
きちんと筋が展開して、また次へと進む期待を持たせながら・・・・・いや、すごい。こんな作家他に知らない。
いや、いるものか。まるで書き下ろしのような書きっぷり。こういう芸当ができるのは、漱石以外、ちょっと思い
当たらない。最近、漱石代表作のひとつ「こころ」に対する誰かの評価を読んで、ずいぶん久しぶりに読み返してみる
ことにしたのだが、ついでに中後期の作品「彼岸過迄」「行人」「虞美人草」「硝子戸の中」をピックアップして
みたのだった。もう20年も前に「こころ」は読んでいるが、今回あらためて読んでみて、登場人物との相対的年齢
が逆転したこともあり、まったく別の作品と思えるほど印象が変わってしまった。
とくに冒頭で先生と出会う海岸での描写など、サガンの「悲しみよこんにちは」の中の海岸描写と相通ずる
美的印象を持っていることや、先生が実はそれほど「私」とは年齢の異ならないにも関わらず、先生と「私」
のような、ちょっと現代ではまったく見られなくなったような濃密な交友関係を成立させていたということに、
古き良き日本が持っていた、今ではほぼなくなってしまった「なにか」に対して感じるところがあった。
正直以前読んだときは、名作名作と言われるけれど、それほどでもないなあ・・・という気がしたが、今回は、まったく一変した。
というわけで、はからずもその言葉さえ知らなかった、後期3部作を読むことになったのだけど、「彼岸過迄」は、
名作にきわめて近い名作、惜しむらくは、やや焦点が定まっていない人物フォーカスさえもう少しなんとかなっていたら・・・・
というものであったけど、「行人」は、「彼岸」をさらに上を行く作品だった。
随所に名文が散りばめられ、ただただ感心しきりだった。しかし、こんなすばらしい展開をどう最後にまと
めるのかとだんだん読み進めながら考え出していたところ、残念ながら最後の最後で、兄と一緒に旅に出た
兄の友人からの手紙の段になって、まったくの個人的見解だが、質的に低下した気がしてならなかった。
兄の友人の手紙内容の性格・言葉が、どうしても「二郎(弟である主人公)」とだぶってくるのである。うーん、
こりゃあまずいぞ、漱石さん!なんとかしかきゃ・・・・と思っていたら、それに気づいてくれたらしく??しばらく
先に行って別の人格設定に直したようだった。しかし、それにしても手紙が始まる冒頭から10段くらいは、
それまでの水準の高さからすると、びっくりするくらいの陳腐ぶりなのは、いったいどうしたことだろうか。それでもなんとか、
それまでの水準を大きく崩すことなく終えるのだが。残念ながら、著者本人にとっても、不本意なまとめかたでは
なかったかという気がする。
そもそも、後期3部作は、証言形式で終わるもの1編、手紙形式で終わるもの2編と、安易なまとめかたをしているとは
言えなくはないだろうか?冒頭から前半、中盤にかけてのすばらしい盛り上がりを思う時、もっとやり方があった
んじゃないかとも思うのだけど。
やっぱり、健康上の問題も大きかったのだろうか。「行人」の解説を読んでみたら、どうも最後の「塵労」とその前までの間に
病気で5ヶ月もの中断があったとあった。こんなことも影響しているのか。それとも単に思いすごしか?
私にはそう思えたのだけど、他の人は感じないものであろうか?
まあそれとは別だけど、なぜか「塵労」のなかの前半部分の文体をながめていたら、こころなしか、村上春樹作品の
文体に似ている気がしてきたんだけど、これも思いすごしかなあ。
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