2010年3月8日月曜日

坂口安吾の世界とは・・・・・(文学論)

 坂口安吾ほど、底知れない見識と得体の知れない奥深さを感じさせる作家は滅多にいない。この人は、
戦後、白樺派などに代表される日本文学草創期から戦前までのあいだに一大潮流となった、私小説的
な心情吐露傾向を嫌い、戯作性豊かな文章を追求した無頼派のひとりである。太宰治、石川淳、伊藤整、
田中英光、壇一雄などが無頼派作家である。カンタンに言えば、あいつらお高くとまって、てめえのプラ
イベートな話をネタにかっこばっかりの小説書いて、ありもしねえ理想ばっかり言いやがって・・・・・
という気概に貫かれていたような傾向にある。加えて、おれたちこそ、新しい時代の旗手であり、戦後の
日本は(戦前から無頼派はあるが)おれたちこそ、主役だ、他は古い、古い・・・・・というニュアンスも多分
にあったことだろう。

 21世紀を迎えた今日では、無頼派でさえ半ば古典的扱いをされるような状況であり、反自然主義文学
、白樺派などとの対立軸での存在価値は薄れてしまっている。言いかえれば、いずれも時間軸を基準に
しての新旧という意味では、まったく意味をなさないと言っても過言ではないだろう。
 そんな現在の状況の中では、反自然主義だ、無頼派だと言った文学理念など、まったく区分の必要
はないと言っても過言ではないわけで、その文学性、作品性そのものの価値がどれだけあるか否かに
よって計られるべきであろうと考える。
 
 と、坂口安吾の話にもどろう。安吾の「堕落論」は有名だ。「白痴」も名高い。ただ、前者はエッセー、
後者は短編小説である。この作者に長編はない。60歳代以上の人たちには、かなり偏見を持って見ら
れているような気がしている。その昔、一時代を画した、時代の寵児だった(らしい)。
 幸か不幸か、安吾の全盛期を知らない。知らないから、作品性そのもので見られる。前後、都合両手
にあまる数のエッセー、短編を読んでみた。
 堕落論をはじめとするエッセーの日本文化における偽善性の抽出(本物の日本文化・歴史観は別に
あると言っている)は、誰でも一度は読んでみたらいい、傑作であると思った。安吾のするどい見識の
前では、なにもかも一刀両断されるようで、胸のすく感じがする。最近、こういう見識を持った人は、見ら
れなくなってしまった。
 初期の短編もいい。エロい、グロい話が、実に美しく描写されていく。あまり、こう言われることはないが
、安吾の文体は純文学の一流作家並みに清澄で美しい。その点では、安吾が批判した近代文学の
作家にひけをまったくとっていない。こういう文体で作品を書いている作家は、ちかごろではいない。

 ただし、某著名批評家が安吾の傑作のひとつとして挙げる、「青鬼の褌を洗う女」あたりから、おかしく
なってくる。どうも原稿料を稼ぐような妙な書き方や、日常生活の乱れから来る(経済的に恵まれてから)
文体の変化が見られる気がするのである。時代の寵児になるまでは、真摯な態度で文学や文化論や
哲学に取り組んでいたが、恵まれてからはどうも、それまでの姿勢は失われた気がしてならない。
 「青鬼」では、原稿枚数で稼ごうと思ったものの、材料に行き詰まってしまい、主人公の女性の幼友達
で力士になっている男を途中からいきなり登場させ、その力士との色事をスジに持ち出し、大相撲の話
をこれでもか、というくらいに何ページにもわたって書きまくっていくのに至っては、呆れるばかり。
 いくら戯作性の追求を目指したと言われる無頼派でも、これはやりすぎである。おそらくは、原稿執筆
中に、TV観戦していた、趣味の相撲を手っ取り早く、次から次へと書いてしまったのだろう。暴挙である。
作家の暴挙としかいいようがない。 この作を、すばらしい一作として挙げている、NHK教育テレビなど
にも登場する、著名な批評家が、千夜千冊とかいうサイトがあるのだが、一気に信用する気がなくなって
しまった。美術観や芸術観には、一家言のあるオーソリティーであり、得るところ多いのだが、文学観だ
けは、他の作品の批評も加え、今一つのような気がする。だいたい、1日1冊では、流し読みしかできな
いだろう。

 上っ面をサーッと目を通しただけで、深いところまで読み込める作品など、名作に存在しない。名作
を生んだ作家の別の作品を比較対照するのだって、無理だ。だいたい、読み手より、はるかに上の頭脳
から生み出されたから、ずっと作品として残り、生きているのではないだろうか。

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