が、よくよく調べてみると、ほぼ同時代に数々の名人達人がいたことがわかり、どうもあやしそうだなと
わかる。だいたい、われ13にして・・・・で始まる、武勇伝など、本当に達人だったら、みずから誇らなくても
人や世間が、いくらでも名声を与えてくれるのではないかとも思える。
たとえば、現代でいえば徒手空拳の格闘技にて、無敵のヒョードル・エメリアーエンコやかつての柔道
無敵山下泰裕、もっと下れば木村正彦、こういう人たちが、後世に残るような自慢をしたことがあったろうか。
木村の前に木村なく・・・・、や203連勝の柔道家、人類60億分の1の男、などいづれも、全部世間が
言ったものだ。
それに引き換え、武蔵さんはといえば、五輪の書の序で、さっきの具合なのである。となると、ちょっと
こいつは、まゆつばくさいということになりそうなのだが、現代の研究では、その五輪の書そのものが、弟子
の筆になるのではないか・・・・とも言われているので、あながち武蔵さんに責任をおしつけるわけには、
いかないのかもしれない。現在、本人の手によるものか、そうでないかという問題では、そうではない、と
いう見解のほうが、優勢ときくから、ますます複雑になる。
では、武蔵さんが著したとされる剣技の書、あるいは絵画などから推察しても、それほどの剣士では、
なかったのか?という疑問が生じてくる。数々の果たしあいは、でたらめか?
これが、また厄介なはなしになるのだが、古武道を研究している方々などの評価からすると、やはり
相当の実戦経験をふんだ、まぎれもない強豪というのが定見らしい。武蔵が伝世した、かずかずの奥義は
現代の剣道(もともとは、ショーであった撃剣を下地にしている)でも、ずいぶん取り入れられている。
目付のこと、正中線、足の運び方等々。
しかしながら、武蔵が戦ったとされる数々の強豪というのが、地元のアマチュア武道家だったり、正体
も伝世していない強豪(佐々木小次郎など)、もしくは武蔵サイドが言うような結果とならなかったと証言
を残している武道家(吉岡派)など、枚挙にいとまなく、それでも強豪だった・・・・と言われても、なかなか
理解できないものだ。
歴史を勉強していてよく思うのだが、知れば知るほど、矛盾した事実がでてきて、途方にくれることが、
ある。武蔵さんの場合も、まったく例外ではない。調べるほど矛盾だらけなのである。もしかしたら、絵を
書いた武蔵さんと剣士だった武蔵さんは、別人だったのではないか・・・と思ったことさえある。
伝えられるような凄惨な修羅場を数々くぐった人が、あれほどの芸術を完成できるものだろうか?
中には、丸目蔵人佐のように、われこそ海内無双(無敵ということ)と柳生家をあからさまに挑発し、
武芸十八般に長じ、自他共に最強と認じた(挑戦者は、いくら待っても出ず)人で、芸術の才もあったと
伝わる人もいるが、その書画が重文や国宝級とされたとは聞いたことがない。
しかし、武蔵さんが残した芸術は、そうではない。いずれおとらぬ傑作で、複数が重文指定を受けて
いる。まさか、作者が武人だったからということで、下駄をはかされたわけではないだろう。
となると、やはり過去の武芸者が残した芸術では、最上位といっても過言ではない。
そんな人物が、はたして自分から、われこそは・・・・・などと、のたまうだろうか?と思わざるを得ないの
である。
また、よく武蔵の物語が語られる時、当時は戦国時代が終わりを告げ、武芸者が仕官するのは、中々
苦難の時代だったと言われるが、ちょっと調べると荒唐無稽なことだとわかる。平和になっても、尚武の
社会的風潮が完全に消えたわけではなく、新陰流の剣豪など、仕官に苦労などしてなさそうである。
いったい、武蔵さんとは実際どういう武人だったかということになるが、これはわたしの浅薄な勉強では
結論が出なかった。ただ・・・・・、いくつか言われてないことで気がついたことがあるので、書いておこう。
1、武蔵さんの剣名が、広く知れ渡ったのは、実は武蔵さんが老年を過ぎたころから、らしいということで
ある。ひとつひとつ資料を追っていくと、武蔵さんは、昔、すごかった・・・・という感じの言い伝えが、ほと
んどである。
2、どうやら、武蔵さん批判派の論調の原因を作ってしまったのは、武蔵さんを敬愛してやまなかった
弟子たちの企図によるものと思われる。
3、武蔵さんの待遇(知行300石)は、当時の最強クラスの武芸者の待遇と同水準だった。したがって
雇った主家は、かなりの高評価をしていたものと推察される。これは、現代で言えば、MLB選手やF1
ドライバーなどを思い浮かべれば理解できる。
4、たいした剣名を残さなかった弟子たちも、みな一様に大出世している。こればかりは、新陰流一門
さえおよばない。いったい、なぜか?単なる偶然か?これは、武蔵研究の上で、大きな謎である。
人によっては、武蔵が、実は相当の名家の血筋だったのではないか?とか、各大名家につてをたくさん
持っていたのではないか?という説を語る人もいるが、いずれも説得力を持たない。
5、武蔵さんは、特定の師を持たぬかわり、山川草木、ありとあらゆるものを師とした、などと物語られる
が、「大空のサムライ」の著者、故坂井三郎氏によれば、およそ戦闘などと言う、命の取り合い申しあい
のごとき特殊な技術を要するものは、心得を持つものから、手とり足とり教えられて初めて身につく、と
述べている。