ブログを更新できなくなる原因がわかったような気がすることがあった。読まれることを前提で書か
ない、いずれ読まれるだろうということも過剰に意識はしないで書くと記述したはずだが、ときどき
気持ちが、そうはいっても傾きかけることがある。とくにアクセスカウンターの数字は気にならないと
言えば嘘になる。やはり気にはなる。それもいったん気にしてしまうと、なかなか意識せずにはいら
れなくなる。昼間の時間帯がどうも多いようだとか、夜間が少ないから若者とかは見てないようだ
とか、どんな人が見てるのだろうかとか、あるいは知り合いが見ているのでは?とか、もしかしたら
とんでもない有名人が見ているのでは?とか考えたりすることもある。このブログを開設して以来、
家族友人知人は言うまでも無く誰にも紹介したことはない。ブログをやっていることはかなりの人に
話してはいる。URLを教えてくれと言われたことも一度や二度じゃない。でも教えなかった。意地悪
ではない。教えたら書きにくくなると思ったからである。多分、それは当たっていると思う。
一方で、もしかすると本当に見てもらいたい人が人知れず見に来てくれているということも期待しな
いということもない。リアル世界で深く関心を寄せてくれていた人、世の中にそれほどはいないはず
だが、あるいは気づいてくれるのでは?という思いが去来することがある。
それは淡い夢であるかもしれない。しかし今の世の中、たとえ淡い夢であったとしても生きていく上
で欠かせないものではないかとも思っている。「潤い」とでも表現したらいいのか、あるいは「明日へ
の生き甲斐」としたらいいのかわからないが。私にとってはいくつかのうちのひとつがこれである。
また他のそれらを幾ばくかは出せるのがここである。
どうも人生が後半に入ってくると、なぜか自分で自分をごまかせなくなってくる。自分で自分を
無理に納得させにくくなってくるような気がする。最近見なくなった、以前は頻繁にTVに出ていた
俳優女優などを調べてみると、意外に花農家をやっているとか、NPO団体で働いているとか、
全く別の世界で生きているとか、ネットで調べると多いのに気がついた。
杉本彩、本名は「松山基栄」さんなどの記事を拾いながら、そう思わずにはいられなかった。
それにしても彼女はすさまじい少女時代からの人生である。
いくらか下の年代になるが、ここまでの境遇の子は珍しかったはずである。一度昔、どこかで
多分六本木ではなかったかと思うが見かけたことがあるような気がする。
顔が小さくて手足が長くてすごい美人のモデルのような18~19くらいの子。ニコニコしていて、
まるで一般人とは違った。本物だったかもしれないし、単に似た子だったのかもしれない。
連れが話しかけた気がするのだがよくは覚えていない。あの頃は、自分と自分の仲間達は、
暑中有名人と出くわしていた。それどころか知人に有名人がいることも珍しくはなかった。
ある領域というか世界を知っていると当たり前のようにそうなるのである。今でもつきあいのある
友人がそうであった。両親とも芸能の世界、とは言ってもどちらかと言えば古典芸能の世界だと
思うが、そういう家庭に育ったようである。なぜか行く先には、そういう世界が広がった。ただし
、暗黙のルールみたいのがあって、決して特別扱いをしない、というのがあったように思う。
サインはもらわないとか、名前を聞かないとか、根掘り葉掘り聞かないとか、そういったたぐいの
ことで、要するに普通に接するということである。それはキャバクラのお姉さんたちにも同じ事で、
共通した世界だろうかと思わせるところがあった。
近いキャラで行くと同年代になる三原じゅん子議員の変貌ぶりにはおどろかされた。
かつてはスケバンキャラで一世を風靡し、馬乗りじゅん子で逮捕騒ぎがあり、今はなんと与党
保守系国会議員なのだから。「八紘一宇」とはよく言ったものだ。
家族が演説会の来援にきた三原議員のスピーチを聞いたらしく、感動的だったようである。
昔の彼女からは想像もつかないが、杉本彩、「松山基栄」さんに共通する何かがあるんじゃないか
と思わせられる。亡くなった飯島愛が、飯島愛って誰よ!どこまで行っても「大久保松恵」だもん、
と亡くなる前に書いたと聞いたが、共通する何かがあるような気もする。
なにかごまかしではない、虚飾のない自分に向き合わざるを得ない時機が人にはやってくるのでは
ないか?という気がする。その時に人が求めるのは「意義深いこと」ということだろうか。
まだ考えがまとまってはいない。現象的にいくつか抽出してみると、そんな気もするだけである。
それがあるいは「潤い」とか、「明日への生き甲斐」として形違えてつながるのかもしれない。
掲示板で知りあった掲示板の板友のことも時々去来する。
リアル世界での人間のつきあいで心に残ることに、その人の表情や様子とともに、その人の言った
こと、「言葉」があると思う。それらに多少鳴らずとも人は影響される、もしくは感化されると言った
方がいいかもしれないが、そういったことは誰にでもままあるのではないだろうか。いつのまにか
自分の一部になってしまう。そういうことはないだろうか。最近、コーヒーを時々飲むようになった。
以前、板でのドライブ談義で、寒い夜更けに一人であたたかいコーヒーを飲むのはいいですよと
言っていた人の記述を今でも印象的に覚えている。
最近になってブログの更新がやりにくくなるもう一つの原因に思いあたった。それは間違いをしない
ようにと気を遣いすぎることである。
単にまちがいではなく、前言との論理一貫性もここではあてはまる。これは楽なことではない。
人は、日々変わる。気持ちや考え方、対象に対する評価、好悪の情さえいつまでも同じというほう
が希少なことではないだろうか。かつて言ったことと矛盾ができるだけ起きないようにするには、
相当な記憶力と自己認識力が必要であるような気がする。記憶力はともかく、自分で自分が
わかっていないで書き続けていくのは自己破綻につながるのではないか。
ブログの前にやることがある。やるべきことがある。大したことではないが、やらなければならない
ことがある。そう理解している。
後記
せめて1日の寝る前に、あるいは週末に「自分」を整理すべきだと思うようになった。
好き勝手にやっていると収拾がつかなくなる。どれがどれなんだとか考えるのが煩わしい。
そこでBusiness Diaryにまとめるようにしている。いるのだが、どうも中々やれないで困る。
学生時代の勉強とそっくりだと感じている。
ない、いずれ読まれるだろうということも過剰に意識はしないで書くと記述したはずだが、ときどき
気持ちが、そうはいっても傾きかけることがある。とくにアクセスカウンターの数字は気にならないと
言えば嘘になる。やはり気にはなる。それもいったん気にしてしまうと、なかなか意識せずにはいら
れなくなる。昼間の時間帯がどうも多いようだとか、夜間が少ないから若者とかは見てないようだ
とか、どんな人が見てるのだろうかとか、あるいは知り合いが見ているのでは?とか、もしかしたら
とんでもない有名人が見ているのでは?とか考えたりすることもある。このブログを開設して以来、
家族友人知人は言うまでも無く誰にも紹介したことはない。ブログをやっていることはかなりの人に
話してはいる。URLを教えてくれと言われたことも一度や二度じゃない。でも教えなかった。意地悪
ではない。教えたら書きにくくなると思ったからである。多分、それは当たっていると思う。
一方で、もしかすると本当に見てもらいたい人が人知れず見に来てくれているということも期待しな
いということもない。リアル世界で深く関心を寄せてくれていた人、世の中にそれほどはいないはず
だが、あるいは気づいてくれるのでは?という思いが去来することがある。
それは淡い夢であるかもしれない。しかし今の世の中、たとえ淡い夢であったとしても生きていく上
で欠かせないものではないかとも思っている。「潤い」とでも表現したらいいのか、あるいは「明日へ
の生き甲斐」としたらいいのかわからないが。私にとってはいくつかのうちのひとつがこれである。
また他のそれらを幾ばくかは出せるのがここである。
どうも人生が後半に入ってくると、なぜか自分で自分をごまかせなくなってくる。自分で自分を
無理に納得させにくくなってくるような気がする。最近見なくなった、以前は頻繁にTVに出ていた
俳優女優などを調べてみると、意外に花農家をやっているとか、NPO団体で働いているとか、
全く別の世界で生きているとか、ネットで調べると多いのに気がついた。
杉本彩、本名は「松山基栄」さんなどの記事を拾いながら、そう思わずにはいられなかった。
それにしても彼女はすさまじい少女時代からの人生である。
いくらか下の年代になるが、ここまでの境遇の子は珍しかったはずである。一度昔、どこかで
多分六本木ではなかったかと思うが見かけたことがあるような気がする。
顔が小さくて手足が長くてすごい美人のモデルのような18~19くらいの子。ニコニコしていて、
まるで一般人とは違った。本物だったかもしれないし、単に似た子だったのかもしれない。
連れが話しかけた気がするのだがよくは覚えていない。あの頃は、自分と自分の仲間達は、
暑中有名人と出くわしていた。それどころか知人に有名人がいることも珍しくはなかった。
ある領域というか世界を知っていると当たり前のようにそうなるのである。今でもつきあいのある
友人がそうであった。両親とも芸能の世界、とは言ってもどちらかと言えば古典芸能の世界だと
思うが、そういう家庭に育ったようである。なぜか行く先には、そういう世界が広がった。ただし
、暗黙のルールみたいのがあって、決して特別扱いをしない、というのがあったように思う。
サインはもらわないとか、名前を聞かないとか、根掘り葉掘り聞かないとか、そういったたぐいの
ことで、要するに普通に接するということである。それはキャバクラのお姉さんたちにも同じ事で、
共通した世界だろうかと思わせるところがあった。
近いキャラで行くと同年代になる三原じゅん子議員の変貌ぶりにはおどろかされた。
かつてはスケバンキャラで一世を風靡し、馬乗りじゅん子で逮捕騒ぎがあり、今はなんと与党
保守系国会議員なのだから。「八紘一宇」とはよく言ったものだ。
家族が演説会の来援にきた三原議員のスピーチを聞いたらしく、感動的だったようである。
昔の彼女からは想像もつかないが、杉本彩、「松山基栄」さんに共通する何かがあるんじゃないか
と思わせられる。亡くなった飯島愛が、飯島愛って誰よ!どこまで行っても「大久保松恵」だもん、
と亡くなる前に書いたと聞いたが、共通する何かがあるような気もする。
なにかごまかしではない、虚飾のない自分に向き合わざるを得ない時機が人にはやってくるのでは
ないか?という気がする。その時に人が求めるのは「意義深いこと」ということだろうか。
まだ考えがまとまってはいない。現象的にいくつか抽出してみると、そんな気もするだけである。
それがあるいは「潤い」とか、「明日への生き甲斐」として形違えてつながるのかもしれない。
掲示板で知りあった掲示板の板友のことも時々去来する。
リアル世界での人間のつきあいで心に残ることに、その人の表情や様子とともに、その人の言った
こと、「言葉」があると思う。それらに多少鳴らずとも人は影響される、もしくは感化されると言った
方がいいかもしれないが、そういったことは誰にでもままあるのではないだろうか。いつのまにか
自分の一部になってしまう。そういうことはないだろうか。最近、コーヒーを時々飲むようになった。
以前、板でのドライブ談義で、寒い夜更けに一人であたたかいコーヒーを飲むのはいいですよと
言っていた人の記述を今でも印象的に覚えている。
最近になってブログの更新がやりにくくなるもう一つの原因に思いあたった。それは間違いをしない
ようにと気を遣いすぎることである。
単にまちがいではなく、前言との論理一貫性もここではあてはまる。これは楽なことではない。
人は、日々変わる。気持ちや考え方、対象に対する評価、好悪の情さえいつまでも同じというほう
が希少なことではないだろうか。かつて言ったことと矛盾ができるだけ起きないようにするには、
相当な記憶力と自己認識力が必要であるような気がする。記憶力はともかく、自分で自分が
わかっていないで書き続けていくのは自己破綻につながるのではないか。
ブログの前にやることがある。やるべきことがある。大したことではないが、やらなければならない
ことがある。そう理解している。
後記
せめて1日の寝る前に、あるいは週末に「自分」を整理すべきだと思うようになった。
好き勝手にやっていると収拾がつかなくなる。どれがどれなんだとか考えるのが煩わしい。
そこでBusiness Diaryにまとめるようにしている。いるのだが、どうも中々やれないで困る。
学生時代の勉強とそっくりだと感じている。
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