2010年12月31日金曜日

ブログを再開したが・・・・・最近のことで。

 ブログを再開すると宣言したのに、ずいぶん間があいてしまった。それにも関らず、そこそこアクセス
があるのを見る度、残念でならかった。書ける内容は、山ほどあるのだが、それを自由にさせない束
縛が有形無形にあったのだ。いちばんの障害は、もちろん仕事。もう勤め人はやめようと思っていたの
に、生活に迫られて再就職することが決まったのだ。絶対、神経的に疲れきって帰って来るような仕事
はしないと誓ったはずだが、神経のすり減らないような仕事ではなかなか稼げなかった。それでも、でき
ることなら今までのような自由の効かない時間帯での勤務、それも高収入目的の業界選びというのは
避けたかった。長年保険金融の世界に生きてきたけど、正直言ってあまりいい思い出はない。だいたい
この世界に生きた人で、ふりかえって本当に充実したビジネスライフだったという人がどれだけいるのだろうか?

 自分が生み出し命名した保険商品が市場に販売され、会社の主力商品になったこともある、総額
十数億円の大型企業保険の準幹事会社に指名される実績も作った、融資では20億円からのプロジェ
クトを何件かコントロールもした。でも結果的には、いかがわしい企業集団への協調融資などはほとん
ど自分から良しとしなかった。外資に行ってからは、出先のマネージャに始まり、本社でビジネスディベ
ロップメントやチャネルディベロップメント、ITやリクルーティング、内部統制などのプロジェクトの責任者
をやらせてもらった。
 なのに今思い返してみると、そういった華々しい記憶のほかに、あまり後味の良くないい出の数々
が栄光の記憶を帳消しにして余りあるほどなのである。こころが痛むような憶も数々あれば、れほど
傾注したかわからぬほどの業績が今となっては、誰もそのことさえ記憶にとどめていないのもあるし。
プライベートだって「社敵」にじゃまばっかりされた気がする。ビジネスとは、そういうものだとわかって
はいるが・・・それでもなにかやりきれない。いったい、それで何が残ったのだ。二十年もかけて、と。
こんな姿をいったいどれだけのわたしの知友が知ってくれたことだろう、と。少なくとも本当に知って
ほしかった学生時代までの彼らは、ほとんど知るまい・・・・

 これを読めば、多くの人たちは、個人的な問題だろうと思うのかもしれないが、振り返るぎり、
わたしのまわりにいた人たちで、例外的な人は、2割にも満たないだろうとう。
だいたい最後の会の日本人重役トップでさえ、今では口には出さないだろうけど、たぶんわたし
以上に思いだしたくなことばかりだろう。私を採用した直属上司だった。ときどきTVで姿を見かけ
るが、民主党主催の行政刷新会議の事業仕分け人をやっていた。テロップというのか、スクリプトという
のかには「企業経営者」だったが。たしかに、いやな思い出というのは新しい仕事に切り替える
ことで、ある程度ふっきれるのだろう。世間では金融や外資で相当活躍した人は、そのまま渡り
鳥みたいにしてずっと勤め人として高給で暮らすのだろうと思われているのだろうが、それは幻想に近いことだ。
 多くは、早めに独立したり、小さな事務所を共同設立したり、コンサルタントになったり、はたまた
全然縁もゆかりもない世界に行ってしまったりする。長続きはしないのだ。いや、長続きはさせ
ない、と言ったほうが妥当か?
 その理由は、この世界に踏み入れた経験がなければわからない。ある意味、ドラマ「ハゲタカ」
みたいな、いや正直に言えばもっと聞くに堪えない世界で、なおかつ何年もハッピーエンドの兆しさえ
ない世界って、言ったら理解してもらえるだろうか。きわどい話は内部で揉み消され、守秘義務
厳重に何年もほどこされる世界だ。

 理由を書きだせば、なかなか簡単にはまとまらない。いつかは言ってみたいけど。
 
 ともあれ、やるなら意義ややりがいがある仕事を残りの人生にしたいと思った。報酬は多少
安くてかまわない。仕事は、本当にやりたいことを可能にするための手段である。いいかえれば目的
別にあって、それを支える糧をひさぐだけでいい。
 それで今がある。だが現実は、なかなか思い通りにはいかだ。今のところまでは、なかなか他の
ことやる気力も余力も残っていなかった。年末休暇に入るまでは・・・・・・

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